蝉花

 山上龍彦、すなわちマンガ家の山上たつひこである。最近、「中春こまわり君」で再脚光を浴びているが、一時期、マンガを止めて、小説に専念していた。
 小説は、山上龍彦名義で、「兄弟! 尻が重い」(講談社、1993年)、「太平」(講談社、1993年)、「蝉花」(集英社、1995年)、「高原のお嬢さん」(講談社、1995年)、「つるりとせ」(実業之日本社、1996年)、「春に縮む」(河出書房新社、1996年)、「夏の潮」(集英社、1997年)、
山上たつひこ名義で「ブロイラーは赤いほっぺ」(河出書房新社、1988年)、「追憶の夜」(マガジンハウス、2003年)がある。
 多いのか少ないのかは、よくわからない。


 本書は三冊目で小説すばるに一九九四年に連載した連作短編だ。ジャンルは「あまり奇妙でない小説」としか言いようがない。微温的な狂気が通底しているといえば、いえる。


 舞台となるのは益子家だ。主人は退職して悠々自適の益子修造。妻、左永子。長男、友昭。次男、則男。長女、玲子。もっとも、家族は遠景として描かれ、あまり前面には出てこない。
 玲子は江原正義という恋人がいてもうすぐ結婚する。
 また、妻は四人姉妹で、修造はとくに義妹の朝子に執心している。
 朝子の夫は、佐藤一郎。この一郎、呉服店を経営しているが、看護婦の西尾敏江と浮気している。敏江には父と兄がいる。
 連作は、益子家の日常を中心に、玲子と正義の結婚、一郎と敏江の浮気を推進力として進んでいく。もっとも強力な推進力は益子修造の妄想力だ。


 というふうに構造化してみると、かなりマンガ家時代の影響が残っている作品であることがわかる。


 小説家としての山上龍彦の弱点は文章ではないかという気がする。マンガの個性的な描線に比べると、あまりにも文体が平凡なのだ。語り手として登場することの多い益子修造の俗物性を描くためにあえて選んでいる文体なのかもしれないのだが、それにしても読んでいてあまり楽しくはない。
 小説の成分としては、ユーモアと情感が多く、作品によって偏りがある。

蝉花(「小説すばる」 一九九四年一月号)

 娘の縁談にとまどう父親は日本中の父親全体の何パーセントぐらいいるものなのか益子修造にはわからなかったが、彼は自分をその何パーセントか以外の範疇に含まれる男だと思っていた。事実、娘の玲子の結婚話が持ち上がった時、彼の心には動揺はなかった。

 修造が玲子の結婚相手の家を探りに行くと、正義の母親が大学時代の同級生であることがわかり動揺する話。妻の妹にも気がある。まじめな顔をして妄想ばかりしている中年男。ひょっとして自伝的な要素もあるのだろうか?

温容(「小説すばる」 一九九四年五月号)

 ニシオリョウスケという名前に心当たりはなかった。
 受話器からもれる声は老境の男のものである。男は「トシエの父親だけどね」と言った。トシエという名前の女にも憶えはない。

 佐藤一郎の浮気相手である西尾敏江の父、良介が訪ねてくる。娘を愛人として家に入れてくれと頼み込むとんでもないじじいだ。酒を飲むうちにぐだぐだになり、つい家に泊めてしまう。庭の手入れをして点数を稼ぐ良介。木から墜落して足を折る。
 良介のキャラクターで読ませる。

海女房(「小説すばる」 一九九四年七月号)

〈万風荘〉と〈帆風苑〉
 似ているようで違うが、違うようで似ている。
 タクシーから降りて、旅館の玄関の前に立った時、あ、これは違うぞ、とすぐに気がついた。十年以上も前に一度泊まったきりの旅館だけど、門構えや玄関の造りははっきりと憶えている。記憶にある旅館名で電話番号を調べ、予約をしたのだが、とんだ勘違いであった。しかし、今さら別の旅館に移るのも面倒臭く、家族五人を予約もなしに泊めてくれる旅館などありそうもない気がしたので、気が進まないながらもその宿に靴を脱いだのだった。

 家族で旅行に行く。泊まる旅館を間違え、結局、二軒の旅館のはしごをすることになるドタバタ。これだけ毛色が変わっている。得意の旅館ものなので、筆が走ってしまったのだろうか。

文色(「小説すばる」 一九九四年八月号)

 梅雨の一日、佐藤一郎は見知らぬ男の訪問をうけた。
「敏江の兄です」
 とその男は言い、頭を下げた。
 男は一郎の常人敏江の兄西尾豊和であった。西尾の硬い表情から用件の種類が察せられた。一郎は女子店員にちょっと出かけてくると言い置いて西尾と連れ立って表に出た。

 今度は、敏江の兄という人物が登場する。金に困っており、妹を取り戻して、金は持っているがバカという一族の後妻として送り込む魂胆だ。修造は修造で朝子に接近していく。妄想だらけの一篇。

うどんげ(「小説すばる」 一九九四年十一月号)

 玲子と正義の婚礼も一ヶ月ほどのちにせまった。
 仲人宅への挨拶も済ませ、本人の戸籍抄本を取りよせたり、礼服の準備をしたり、式をひかえた花嫁の両親としての役割はとどこおりなくはたし終えた修造である。

 玲子の恋人の父親、江原弘が登場する。とんでもないキャラクターでなにを考えているのかわからない。うんこのシーンが強烈すぎてほかのエピソードは忘れた。ギャグ連発で小説というよりマンガに近い。

笹魚(「小説すばる」 一九九五年一月号)

 益子家の家作のひとつである「よへえマンション」の住人が、「真夜中に物音がして眠れない」と苦情を言ってきた。

 幽霊騒動、妻の旅行による食事作りなど。玲子と正義はあっさり結婚し、益子修造の日常はなにも変わらない。