「献灯使」(多和田 葉子)

 表題作がとくに長く、長編の趣き。2011年を起点とする日本年代記である。年代記というと、つい火星を連想する私としては、自分の足下の地続きにこんな長大な物語が成立したことに驚く。
 収録作は「献灯使」「韋駄天どこまでも」「不死の島」「彼岸」「動物たちのバベル」。
 発表年代は2012年から2014年に及ぶ。福島の事故と災害から発想したのは確かだろう。「不死の島」には「福島で事故があった年にすべての原子力発電所のスイッチを切るべきだったのだ。すぐまた大きな地震が来ると分かっていたのに、どうしてぐすぐずしていのだろう。」(p192)という直接的な記述がある。
「不死の島」と「彼岸」で、世界観は明瞭に把握できる。
 「献灯使」と「韋駄天どこまでも」にはその世界の中に著者が実際に住んでみた、あるいは神としてその世界を覗き込んでみたという感触がある。
 誰が主役というわけではない。メインの登場人物は義郎という百歳を超える老人と曾孫の無名。この二人に寄り添うように一人称的三人称で話は進むが途中で小学校の先生の思考に寄り添ったりして文体は自由自在だ。
原子力発電といった直接的な言葉は使わずに読者を近未来の日本社会に引き込む技法はすごい。たとえば、冒頭すぐに義郎がジョギングするシーンが出てくる。こんな書き方だ。
「義郎は毎朝、土手の前の十字路にある「犬貸し屋」で犬を一匹借りて、その犬と並んで三十分ほど土手の上を走る。(中略)そのように用もないのに走ることを昔の人は「ジョギング」と呼んでいたが、外来語が消えていく中でいつからか「駆け落ち」と呼ばれるようになってきた。「書ければ血圧が落ちる」という意味で初めは冗談で使われていた流行言葉がやがて定着したのだ。無名の世代は「駆け落ち」と恋愛の間に何か繋がりがあると思ってみたこともない。」
 言葉狩りが進行している恐怖を滲ませながらもジョギングから「駆け落ち」にジャンプする黒い笑い。老人が朝からジョギングしている異様さと無名世代の描写も折り込まれていて、とにかく文書量あたりの情報が多い。
 死ねない老人とどんどん衰弱する子どもたち。終焉の風景を描いているといえばそれだけだが、読めば読むほどいまの日本の姿と重なってきて気持ちが重くなる。無名たちの世代が苦痛を苦痛と感じないことだけが唯一の救いだが、それを昔作家をしていたという義郎老人の想像力が無残に打ち砕いていく。
 この小説を読むときはなるべくまとめた時間をとって、多和田葉子さんが作り上げた二重写しの「いまの日本」に浸り込むといい。作品中では2015年は日本からの情報が途絶し、鎖国状態に入った年だ。
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