世界一周恐怖航海記

 直木賞作家、車谷長吉の長編エッセイ。

平成十七年十二月二十六日(月)
 日本脱出したし 皇帝ペンギン皇帝ペンギン飼育係りも
         塚本邦雄「日本人霊歌」


 併し私は今日まで日本を脱出したいと思うたことは一遍もない。ところが、このたび日本を脱出することになった。
 平成五年秋、結婚をして出雲・隠岐へ新婚旅行に行った。その帰りの車中で、嫁はん(高橋順子)に「東京へ帰ったら、本郷に家を買ってね。」と言われた。当時の私は都内某会社の嘱託社員で、給与はいただいていたが、賞与もない状態で、都心の本郷に家を買うなど夢物語だった。果たして帰宅後、一人で本郷の不動産屋の張り紙を見に行くと、一戸建ての家は七、八千萬円が相場だった。私には迚もじゃないけど手の届かない金額だった。併し「家は買えません。」などとは口が裂けても言えないのだった。言えば、男の一分が立たないのである。男の一分が立たなければ、死んだも同然である。
 以後、五年間、四苦八苦の末に平成十年冬、旧本郷駒込千駄ヶ谷町に家を買うた。嫁はんは大喜びした。するとこんどは「いずれ船で世界一周旅行に連れて行ってね」と言い出した。三日に一遍ぐらい、朝飯の時に言うのである。併し私は外国になど関心が一切ない。行きたい、と思わない。けれども、嫁はんは、らんこらんこ言うのである。

 らんこらんこ、とはどういう形容であろうか。わからんけど、そういう経緯で、車谷氏はピースボートのトパーズ号に乗り込んで百数日間の船旅に出かける。
 このピースボート、いろいろ政治的に問題のありそうな組織だが、そんなことは微塵も出てこない。一冊まるごと、徹底した車谷節が展開する。だいたい、船旅と言いながらほとんどの時間を図書室で過ごしているのである。紀行文として読む必要さえないであろう。
 翌日の記述の一部。

 きのう午後二時半ころから四時まで、デッキで、相模湾の向こう、伊豆の山々の後ろに富士山を見た。夕日に染まった富士だった。海の上から富士を見るのははじめてだ。
 昔、小学校五年生の時、一つ年上の雅彦叔父(母の末弟)がその頃「駿河湾の上から富士山を見たぞ。」と言うて、自慢していた。人を羨ましがらせるのが好きな男だった。俊夫叔父(母の長弟)がその頃、日本郵船氷川丸の三等機関士をしていて、雅彦は俊夫叔父に神戸港から横浜港まで氷川丸に乗せてもらったのだ。私はその話がいかめいて、いかめいて業腹を立てていた。本当は自分も海の上から富士山を見たいのだが、それがかなわないから、「わいは一生、富士山なんか見いへんど。」と心に誓っていた。ところが、昭和三十五年秋、中学校三年生の修学旅行の時、電車の窓から不意に富士山を見てしまった。悔しかった。播州の片田舎の中学生どもは、みな「富士山、萬歳ッ!」と叫んだが。
 海の上から富士山を見たのは、こんどがはじめてだ。夕日に染まった赤富士は美しいと言えば美しかったが、何か悔しかった。嬉しくなかった。業が沸いた。「遅すぎた。」と思うた。私は今年還暦の六十歳である。雅彦の自慢を聞かされたのは、十一歳の冬だった。実に四十九年間、怨んでいたのである。雅彦は十一年前、五十歳で自殺したが。何事も仁田山な(ルーズな)男だったが、そうであるがゆえに自殺に追い込まれたのだけれど、最期は見事だった。嫁はんと四人の子、水商売の女に産ませて捨てた子を残して。(中略)欲しいものは、欲しい時に手に入れなければ、喜びはないのである。何年も時を経て、手に入れても、喜びの滓しか味わえないのである。

 すごい文章である。紀行とまるで関係がない。
 この人の周りでは世界が変容するのではないかとさえ思えてくる。
 十二月二十八日の日記では、不思議な老女が出てくる。

 今日、七回の喫煙所で聞いた話。六十歳ぐらいの女が関西弁でまくし立てていた。その女はこのピースボートの旅に出るのは、四十五回目なのだそうである。今回の旅は第五十二回ピースボートである。そして女が言うには「いまはまだ日本は冬だし、旅のはじまりやから、みんなおとなしく自分の部屋に寝てはるけど、そのうちに四人相部屋の連中は、やれ隣りの女の鼾がうるいさいだの、夜中に部屋へ帰って来る奴の物音がうるさいとか言うて、相部屋では寝なくなり、七階の公共スペースのソファの上に寝るようになる、自分の部屋から毛布一枚持って来て。まるで浮浪者みたい。ルンペン生活や。この船会社の人に、どないぞ、してえなあ、言うても、浮浪者は動かへん。金のない若い人やからな。四人相部屋は安いけど、まあ言うたら、病院の相部屋といっしょや。いろいろ息苦しいことがあんね。それを解決するんは、結局のとこ、金や。高い銭払ろたら、一人部屋に変われるね。けど、そんな銭はない。それで公共スペースのソファの上に寝るね。赤道直下の南の海の上へ行ったら、毛布もいらんわな。この船の部屋、高い一人部屋から船底の四人相部屋まで、六階級あるやろ。それぞれ値段に差がある。娑婆の世界も、金がすべてやけど、この船の中も階級社会で、結局のとこ、何も娑婆と変わらへんのや。金が物言うね。」得意満面の顔で女はしゃべるのだった。

 読みながらほんまの話やろかと思う。世界一周旅行という浮き立つような言葉から連想される話は金輪際出てこない。この老女の言葉も、伝聞とはいえ、あんまりだ。娑婆と同じか。所詮は銭の世界か。
 この世に行き詰まったら、金を借りまくり、この船に乗って日本から逃げたろか。横浜港に着く前に海中に飛び込んで死ぬ。いいかもしれん。金貸しも洋上までは追いかけてこられないだろう。と、そんなことを考え始めるので、なかなかページが前に進まない。
 一月九日。船はインド洋まで来ている。

 千駄木の家に帰りたい。信子はんの顔を見たい。信子はんは鯰ではあるけれども、田舎のお袋と同じ名前だ。信子はんは私を慰めてくれるのだ。この船の生活には、慰めがない。「しみじみとした人生」がない。みんな、生の楽しみをむさぼろうと、はしゃいでいる。この「むさぼる」というのが、私は嫌いだ。この船に乗って思い知ったのは、私には人生を楽しむ能力が根本的に欠けていることだ。

 私が車谷作品を好むのは、こういう世界認識だ。むさぼる人間、はしゃぐ人間に対する車谷氏の憎悪は格別のものがある。
 一月十七日。

 私と同じ年ごろの女が、セーシェルの海岸で若い日本人男女が抱き合っているのを見たというて、隣りの同じ年ごろの女に「あなたぐらいの年になると、もう抱いてくれる男はいないわね。」と言うた。するとそう言われた女は「あら、そういう言い方はないでしょう。あなただって私と同じような年なんだから、失礼なことを言わないでよッ。」と怒っていた。二人とも、まだ男に抱いて欲しいのである。

 いじわるな目線。文学についての言及もしばしば。
 二月二十五日(土)。

 私は「私が私であること」が不快だ。他の何者かであればいいのに、とよく思うが、私は両棲類でも爬虫類でもない。この不快感は地球の果てまで付いて来た。
「せめて良心があるかのやうに生きたい。」森鴎外が「かのように」の中にこう書いている。島尾敏雄はみずからの浮気事件によって起こった嫁はんの狂気を「死の棘」と書いている。私の人生にはいまのところ、このような「棘」はない。私にとって問題なのは、過去三回の人の嫁はんとの姦通事件である。一度目は男、女の子供のある女。二度目は女二人の子供のある女。三度目は男二人の子供のある女。いずれも私に金がない(甲斐性がない)ことから、行き詰まった。最初の女は私を見捨て、次ぎの女は私の方から手を切った。その次ぎの女は狂気のごとく私に追いすがって来たが、私に失望し、逃げて帰った。この三度の姦通事件が、のちに書いた「赤目四十八瀧心中未遂」の下地になった。私はこの小説によって栄誉と金を手にした。女を「藝のこやし」にしたのである。これが私の「棘」と言えば「棘」である。小説のモデルとしたわけではないが、悪いことをしたな、という気がある。この三度の体験がなければ「赤目」を書くことは不可能だっただろう。「直木賞作家」などと言われると、厭な気がするのは、このせいだろう。ああ、せめて良心があるかのように生きたい。

 「赤目」は人生のなかで何回か読み返したい小説のひとつなのだが。ぼんやりと感じていた棘がここではっきりと形をとってしまった。
 三月十九日(日)。船はイースター島を経て、ラバウルへ向かっている。旅の終わりも近い。この日の日記にも直木賞が出てくる。

 文壇は「芥川賞作家」「直木賞作家」などという肩書きだけで生きていけるほど甘いところではない。そういう肩書きがある人でも、三回連続でへたな原稿を編輯者に渡し没原稿を言い渡されると、もう相手にされなくなる。私はそういう幾多の例を見て来た。ある女が芥川賞をもらった時、「あッ、これでもうこっちのものだ。」と言ったのだそうである。何が「こっちのもの」なのか知らないが、この女ももう編輯者に相手にされなくなってから久しい。まだ賞をもらわない人の場合、ある程度、猶予を与えられることがあるが、勿論、それにも限度があって、まして一度、賞をもらってしまうと、へたな原稿を編輯者に渡すことは許されない。生きるか死ぬか、生き馬の目を抜く世界である。原稿は作家の命である。編輯者に突き返されるような原稿しか書けなくなければ、その人はもう死人である。心しなければならない。

 現場の人がこう言っているのである。事実であろう。
 船には小説家になりたいという人も乗船している。車谷氏の言葉。
 三月二十八日(火)。

 山本健太郎氏に小説の書き方について話す。小説とは「人が人であることの謎」について書くこと。つまり「人間」とは何か」という問いに対する答えである。作家になるためには、一年に一人の作家の全集を全部読む必要がある。それを三十年ぐらいくり返す。また自分が気に入った作家の作品一篇を、五十回ぐらい声に出して読み、耳から聞いて全部記憶してしまうこと。私の場合は、森鴎外の「阿部一族」をそうした。国語辞典、漢和辞典を全部読む。これらは必要条件であって、十分条件ではない。これだけの努力をしても、なれない人はなれない。覚悟が必要である。

 翌々日、横浜港について旅は終わる。
 一度読み、疲れ、引用するために再読してぐったりした。活字の上だけなのに世界一周旅行に食傷した気がする。