イッツ・オンリー・トーク

 絲山秋子。文春文庫。
 プロフィール。

絲山 秋子
1966年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後住宅設備機器メーカーに入社、2001年まで営業職として勤務。03年「イッツ・オンリー・トーク」で第96回文學界新人賞を受賞。04年『袋小路の男』(講談社)で第30回川端康成文学賞、05年『海の仙人』(新潮社)で第55回芸術選奨文部科学大臣新人賞、06年「沖で待つ」で第134回芥川賞を受賞

 怒濤の快進撃の起点となる作品集。

イッツ・オンリー・トーク(「文學界」2003年6月号)

1 トースト
 直感で蒲田に住むことにした。
 ある日、いい加減冬に飽きた頃、山手線に乗って路線図を見ていると「蒲田」という文字が頭のなかに飛び込んできた、それで品川まで行って京浜東北に乗り換えた。ホームに降りると発車ベルの代わりに蒲田行進曲のオルゴールが鳴っていた。

 力みのないいい文章。
 主人公は三十路の女性。大学を出て、新聞社に入り、カイロ支局を経て帰京するが、そこで力尽き、というか、精神病院に一年間入院する。鬱らしい。いったん復帰するも記者は無理で、Webニュースの管理をするが鬱が再発して入院し、退社。画家となる。いまは無職なのか、画家なのかよくわからない状態。ときどき鬱がくる。
 基本的に静かな日々であるが、どこかしらで人との交流はある。それをつぶやくように物語っていく。際だったストーリーはないのに、ものすごく読ませる力が強い。主人公の存在感の強さだろう。人間をこのように書ける人ならどんなものでも書けるだろうなと思わせる。
 全体は連続する断章から組み立てられている。
 1 トースト
 2 神話
 3 映画館
 4 ジャージ
 5 プラセボ
 6 リハビリ
 7 45オート
 8 バッハ
 9 デルタ
 10 梨
 11 銭湯
 12 座標
 13 うどんとそば
 14 クマノミ
 15 クリムゾン
 痴漢とか鬱のヤクザとか印象深い人々が登場する。忘れがたい。クリムゾンキングの音楽が通底音として流れているのもしゃれている。

第七障害(「文學界」2003年9月号)

 早坂順子は馬を殺したことをいつまでも苦にしていた。
 群馬県馬術大会の障害飛越競技、成年女子決勝の第七障害で順子は一メートル三十のダブル障害の飛越に失敗して、派手な人馬転をやった。馬と自分が乖離し、落ちていくところを、彼女はコマ送りの映像で覚えている。彼女が地面にたたきつけられたところに馬が降ってきた。下敷きにはならなかったものの、馬が立ち上がろうとする前肢に左足を踏まれかけ、彼女は骨折して救急車で運ばれた。馬は右前肢を複雑骨折していて、駆けつけた獣医に予後不良と診断され、順子の所属するRC群馬の柴田勇介の判断で安楽死の処置がとられた。ゴッドヒップという名の栗毛の牡馬だった。

 半年後に発表された中編。
 群馬と馬への強いこだわり、喪失、逃亡、恋愛による再生。
 こちらはわりとストーリーラインがくっきりとしている。その分、どこに転がっていくかわらない魅力はすこし薄れている感じだ。