灘の男

 灘の男。二〇〇七年、文藝春秋社。
 車谷長吉私小説作家廃業宣言後の勝負をかけた聞き書き小説集。



 自著を語る


灘の男(「文學界」平成十七年四月号)

「はあ。わしが濱長や。灘の濱田長蔵や。わしはもう何もいらん。」

 表題作は著者の郷土とも関係の深い播州は灘七村の「粋で、いなせで、権太くれの男たち」を描いている。男たちといっても、主に出てくるのは地元の英雄といっていい、濱田長蔵と濱中重太郎の二人。
 どちらも喧嘩が強く、働き者で、先見の明があり、人間として太い人である。
 話はそれるが、聞き書き小説というのは、本人あるいは関係者に聞いた話を並べていき、必要最低限の事実を挿入する。事実を組み立てて某かの真実を描くという点で、私小説の方法とあまり変わりはない。ということは、私小説というのは、自分に対する聞き書きであったのか、と思った。この確信があったからこそ、私小説廃業宣言ができたのだろう。
 さて、聞き書きは、あったことを曲げることはできないし、聞いた以外のことを書くこともできない。では、作者は作為はどこに出てくるのか。場所は無限にある。
 題材に誰を取り上げるか。
 聞いた言葉のどこを取り上げるか。
 聞いた言葉をどのように書くか。
 いくらその場で語ってもらっているような感じを受けるリアルな会話であっても、いや、そうであればあるほど、工夫を凝らして加工しているものである。人間の口から出る言葉ほどでたらめで冗長なものはない。
 この中編を読む限り、車谷長吉の編み出した聞き書きの文体は、ドンキもびっくりの圧縮会話体である。数ページめくるとへとへとになるくらいの情報量が会話の中に埋め込まれている。場面の切り替わりの早さ、ディティールの細かさは尋常ではない。
 ラストは「従って悪太郎とは、強い男である。」で止めてほしかった。続く一言はよけいである。全体のまとめであり繰り返しである。

深川裏大工町の話(「文學界」平成十七年八月号)

 はい。そうですね。私が生まれたのは昭和五年五月十五日です。そんな時代ですが、産婆さんに家で取り上げてもらったんではなく、病院で生まれました。そう聞いてます。家は深川裏大工町にありました。

 灘の男に比べると、ずいぶん優男というか、おとなしい語り口に戸惑う。が、情報の詰め込み方はやはり凄い。知りたいことを教えられることに慣れている読者の頭はじーんと痺れるだろう。ここでは、語りたいことが語られているのであり、読者の都合など関係ないからだ。いまはない深川裏大工町という地名へのこだわりもそうである。そんなことを知りたい人はいないだろう。しかし、作者は書くのである。語り手にとって重要なことだから。それにもまして作者にとって、古い地名は大事なことだから。
 ラストの一行の見事さはとても聞き書き小説とは思えない。
 「本当は戦後篇まで書きたかったのであるが、まだ関係者がたくさん生きておられ、このごろは書かれたものに対する訴訟沙汰があるので、書けなかった。」と作者は述べているが、いまのところ、ここまでよかった気がする。いずれ戦後編も読めることを楽しみに待ちたい。

大庄屋のお姫さま(「文學界」平成十八年十月号)

「はい。この松ノ下六郎右衛門家はわたしの代で息絶えてしまいます。」

 この聞き書き小説の後ろには、昭和二十二年春の農地改革がある。救われた人もあれば、滅亡した人もある。改革にはどちらの面もある。つい先日、この改革の裏側がみえる「白洲次郎 占領を背負った男」(北 康利著/講談社文庫)を読んだばかりだからなおさら、引き込まれて読んだ。
 この短編の感想は「お姫様も大変やなあ」ということに尽きる。

 銀行を辞める頃からですかね、きっと結婚しないんじゃないかなァと思っていましたね。二十七の時に、そう思いました。別に何も切っ掛けはありません。結局……。本当に何て言うか、傲慢だと言われるかも知れませんが、自分が生れて来て、本当によかったと思うたことないんです。ええ。だからまず自分の子供は絶対にいらないと思うたこと。だって、わたし、人生ってこんなにいいものだから、あなたを世の中に出して上げたのよ、って言えないもの。それは生れて来た人が自分で拓いて行くんだと言われれば、それはそうかも知れないけれど、でも、自分の体験からして、絶対にそんなこと言えないと思うたんです。

 苦労をしたお姫様だからか、個性なのか、もっと普遍的ないまの女性の姿なのか……わからないけど、印象に残る一言だった。


 それにしても、この三編に通じるのは、出てくるのがものすごい富豪や成り上がりや有名人ばかりだなァ、と思った。車谷さんはふつう嫌い、貧乏人嫌いなのかもしれない。