「権現の踊り子」

 講談社文庫。522円税別。
 町田康、短編集。第二十八回川端康成賞、受賞。

鶴の壺(東京新聞 一九九九年二月二七日)

 鶴が入院している、しかも病状はかなり深刻でいつみまかってもおかしくないという話を最初に聞いたのは、確か湯豆腐で熱燗をやりながらだからもう六ヶ月以上前、以来、いろいろな場面でいろいろなひとから鶴のことを聞いたのだけれども、その聞いた状況というのがきわめてよろしくなく、例えば撮影現場の暗がりですれ違いざま、顔見知りの俳優に、ねぇ鶴のこと聞いた? と耳打ちされ、うん聞いた聞いた、と答えると、助監督が呼びに来て相手はあたふたとセットの奥に消えてしまう、パーティ会場で知り合った人と話すうち、そういえば鶴が、というので、うん、そうらしいね、と身を乗り出すと、重要な人を発見した彼はやあやあやあやあどもどもども、と手を挙げ人の渦のなかに見えなくなる、など、いつまで経っても鶴が入院をしているらしい、しかも病状は深刻でいつみまかってもおかしくないらしい、という情報以上に詳しい情報を得ることができぬまま六ヶ月、ふだんの暮らしのなかでふと、鶴はどうしているだろうか、と思うこともあるにはあったが、日々のいろいろなことに取り紛れて鶴のことはそのままになっていた。

 冒頭のワンセンテンスである。長い。野坂昭如かというくらい長い。発表媒体が新聞だからわざとやったのだろうか。
 しかしいくら長くともスルスルと読めてしまうこのリズム感はいったいなんだろう。
 文体による演奏が心地いい一種の音楽小説。たたみ込みのリズムはすごい。
 でも、こんな無内容な文章を情報の塊である新聞の紙面で読まされたらどんな気持ちになるんだろう。そのへんの綱渡り感覚がまたちょっとたまんない。

矢細君のストーン(「群像」 一九九九年十月号)

 自宅近くの上海屋台という名前の支那料理で、たいへんに味の悪い料理三皿と安葡萄酒を一杯とって、代価が五千八百三十円、無闇に高いな、もう二度と行かないでおこう。と、少し気色を悪くし、しかし、まあ、一度は入らないと分からないのだから僕は後悔をしない、このことを奇貨として向後はきっといつもの雄珍房に行くことにしよう、と考えつつ自宅に立ち帰り、門柱脇のポストにささっていた夕刊を持って玄関に入ったところ、電話が鳴っている、慌てて受話器を取り上げると、電話の主は、年来の友人であるところの矢細法也君で、いまから晩飯をそういうところなのだけれども家に来て一緒に食わぬかと云う。生憎いま飯を食ったところだ、と返答すると、それでもよいからちょっと来いよ、というので、では頃合いを見計らってお邪魔する、と、電話を切り、玄関脇の三畳で夕刊を読んでから、もう大分と以前、矢細君が手ずから拵え、そきあまりの出来映えの悪さに怒って庭に投げ捨てたのを拾い、以来、普段履きにしているホーチミンサンダルをつっかけて家を出た時点で、まだ薄明るかった世間が、ぶらぶら歩いている内に次第にあたりが紫のようなことになっていって、矢細君方に到着する頃にはすっかり暗くなり、矢細君方の玄関の丸い明かりに乳白色の灯が入っていた。戸を右に引くと、りゃりゃりゃりゃ、という音が鳴って、これが呼び鈴代わりなのだけれども、矢細君は僕が訪ねていっても玄関まで出迎えるということをしない。奥の六畳に座ったなりで、お、とか、やや、とかいうばかりである。また左手の丸い電気ベルは、なかで断線しているのか、十年以上前から鳴らず、僕はこうして故障したものを許せない質だが、矢細君はこういうものをいつまでも放置していっこうに気にしない性質で、景気良く、りゃりゃりゃりゃりゃ、という音を立てて、ホーチミンサンダルを脱いで上がると、いつもの六畳に矢細君がいない、しかし、朱色の座卓のうえに薄い透明のフィルムで覆った料理が五皿ばかり、内側に水玉がたくさん付いているのが置いてあったので、そのうち戻るだろう、と思って待っていると、案に違わず直きに、りゃりゃりゃりゃりゃ、という音、のしのしのし、という音が聞こえて、矢細君がのっそり座敷に入ってきて、やあ、いらっしゃい、と立ったまま声を掛け、手に持っていた袋を傍らに置いて、君、もう済んだのか? と云って座った。済んだ、と答えると、矢細君は、飲むのは飲むだろう、と袋から葡萄酒の瓶を取り出して、座卓の上に置いた。

 ああ、やっと段落だ。段落というくらいだからこれはひとまとまりのもので、しかし、この場合、どうまとまっているのか、よくわからない。町田康の小説はまとまりがよくわからない。詳細だね細かいねと思うが、けっこうな時間もこの段落の間に経過しており、場面も三つも転換し、過去の話も持ち出し、性格描写もしているからら、じつは詳細と省略が同居している。この密度が続くから読む方は大変だ。
 ちなみにこの中であきらかな町田語は「奇貨として」と「向後は」の二つだと思う。なかなか普段着のことばとしてつかえる小説家はいない。
 矢細君は、世間の常識からいくとじゅうぶんに変な人だが、突拍子もないというところまではいかず、話も広がらず、まあなんとなくという感じで終わった。終わり方はよかった。