「日本の行く道」



書名 「日本の行く道」
著者 橋本治
版元 集英社新書
価格 777円
評価 ☆☆☆☆☆



 新宿の書店で偶然出会い、帯の『今の日本に漠然としてある「気の重さ」を晴らす 作家の確かな企み!』という惹句にひかれた。
 橋本治といえば、私にとっては、「桃尻娘」と「花咲く乙女たちのキンピラゴボウ」と「ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件」の作家だ。
 あまり知られていないが、「ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件」は傑作だ。とくに素晴らしいのが動機の部分で、読んでしばらくは感動で動けなかった。殺人にこんな動機がありうるのかという驚きと、たしかにそれは自分の中にもあるという頷きが同時にやってくる。
 その恐るべき動機と、本書の帯の「漠然としてある気の重さ」は通底している予感がした。


 すこし分厚めの新書は、読み終わってみると、あっという間だった気がする。
 橋本治独自のやさしい言葉なのに分かりにくい論理展開はやっぱり健在で、頭の中のメモリをフル解放しないと読み進めない。断片的に読み進むことは難しく、長い固まりを頭の中に放り込んで、「さっきのあれが、あ、ここで関連して、そうか、飛んだと思ったけど、戻っていたのか」などと呟きつつ、大きな「考え方」を飲み込む読書となる。
 話は大きく二つあって、ひとつは子供のいじめと自殺の話、もうひとつは地球温暖化の話だ。行き詰まっている日本の現状を象徴する二つの事象である。
 この二つの問題の共通点は「行き場がない」ということである。
 歴史のどこかで選択を間違ったのだ、という結論が導かれる。それに対する橋本治の処方箋は、超高層ビルをすべて壊すという恐るべきものだ。
 こうして内容をまとめていると、とてもつながりは感じられない。それらを緊密に接続する論理は、実際に読むことでしか実感できない。
 最後は「家を考える」という章だ。家の問題を家族の問題として取り扱うから間違うと橋本治はいう。家をシステムの問題として取り扱うと、会社の問題と同質になり、地方と農業の問題が理解できる。

 消費しないことに関してすこしでも不安や引け目を感じている人にとっては、必読の書。


目次


はじめに

第一章  「子供の問題」で「大人の問題」を考えてみる
1 どこから話を始めるか?
とりあえず、「未来に続く現状」を考える/「未来」を考えることは、「子供達のありよう」を考えることである/「子供のことを考える」は、「他人のことを考えるでもある/
2 どうして子供が白殺をするのか?
「社会のあり方の一つとして、「いじめ」の問題を考えてみる/「いじめは昔もあった」という考え方/どうして子供が自殺をするのか?/子供でも「自殺」を考えないわけではない/しかし、それは「頭わ中の問題」だけではない/子供は誰かに守られている/子供は、自分へのいじめたやすく訴えられない/いじめは「親からの虐待」と似ている/昔の「いじめっ子」は「友達」ではなかった/「友達」が学校を占拠Lている/「いじめ」のなにが問題か?/「いじめ」と「いびり」/それは「子供の問題」なのか?/「成長の早い子供と「成長の遅い子供」/子供が子供のまま大人になる/「なに」が変わったのか?/問題は「進歩」の方にある

第二章 「教育の周辺にあったもの」
1 「いじめっ子」はどこに消える?
あまりにも長く続く「今」/「いじめっ子」はいつ消えたのか?/「近代」に取り込まれた「前近代」/団塊の世代が進学を考える頃/「数」が状況を変える/「地獄」がそのまま「ブーム」になる/「学校」が変わる/親達による、いとも単純な学校理解/「いじめっ子」が「落ちこぼれ」に変わる/前段としての家庭内暴力/高校に出現する「いじめっ子」/ツッパリの時代/家庭内暴力は深化する/「いじめっ子」という通過段階/「不良」が消える/「家か、学校か」の二択だけで、「その他」がない
2 一九八五年に起こったこと
「荒れる学級」と「学級崩壊」/犯人は「ゆとり教育」か?/では、なにが「犯人」か?/初の「いじめ白書」が出された頃/一九八五年に起こったこと/基調は変わらないまま、状況だけが変わる/子供を勉強から遠ざけると「いじめ」が生まれるのか?/子供は直感する/必然がないものはどこでも必然がない/「行き場がない」ということの由々しさを理解すべきだ
3 思いやりのなさが人を混乱させる
「日本の格差社会」は格差社会なんかじゃない/「思いやり」が足りない/「自立」という錯覚/なにが「自立」を悪用させる?/「自立」と早とちり/なにがそんなに面倒臭いんだ?/それで、「子供」はさっさと「大人」になる/「自立」が社会を占拠する/今更、人を責めても仕方ない

第三章 いきなりの結論
1 産業革命前に戻せばいい
対処法を考える/めちゃくちゃな「結論」/いきなり「産業革命以前」に戻すと大変なことになる/しかし、物は考えようだ/たとえば、日本の江戸時代なら/もう少し妥協点を探ろう/めちゃめちゃだけどリアリティーはある/日本が一九六〇年代前半に戻ると――/世界の転換点としての一九六〇年代前半/一九六二年に、既に「産業革命以来」は問題になっていた/一九六〇年代前半に存在していたもの、存在していなかったもの/「一九六〇年代前半」に戻す方法/日本から超高層ビルをなくしてしまうと――その1//日本から超高層ビルをなくしてしまうと――その2/超高層ビルをなくすと、地方が再生する/徳川三百年の地方制度を参考にしろ//日本から超高層ビルをなくしてしまうと――その3/国際競争力の観点から超高層ビルをなくす/なんであれ、フェイントをかけた方が勝ちだ/「みんなが金持ちになる」という発想はもう古い/貿易戦争に勝ってはいけない理由/自分の国でいるものくらい、少しは自分の国で作れよ
2 歴史に「もしも」は禁物だけど
歴史に「もしも」が禁物なのは/でも「歴史は繰り返す」とも言う/「選択」という意外な問題点/徳川幕府は「開国」を選択したが、戦争はしなかった/明治維新政府の「心の傷」/政府は傷を負って、国民はこれを理解しない/日本はどうして、世界に対して受動的なのか?/一九八〇年代に、日本は「世界の勝者」だった/「勝者」なら、敗者のことを考えるべきだった/「元勲」という権力独占システム/権力のシステムに、根本的な変化はなかった/議員がいなくても官僚がいる/官僚は「誰」に忠実なのか?/近代日本に隠されてある「政府と国民の分裂」/日本の官僚は、すべてにわたって超越出来る立場にある/官僚達の共和制/民主主義がまだ足りない/国民が主人なら、官僚だって国民だ/号令一つで「考え方」だけは変えられても/再び、歴史に「もしも」が禁物なのは/成長した後になっても、過去の言いなりになっていることはない/そして「革命」の時代は終わった
3 産業革命がもたらしたもの
それで話は「産業革命」になる/産業革命を実現させた日本の特異性/日本は「なに」に対して特異なのか?/昔の日本の工場経営者に、産業革命を選択する必然はあったか?/工場制手工業の日本に、産業革命を導入する必要はなかった/「世界に冠たる町工場」はどうして生まれたか?/「物作り」の根本は、機械でなく「人」である/ではなんだって、明治維新政府は「産業革命」を必要としたのか?/産業革命は、経済戦争中の「武器開発競争」でもある/もういいじゃないか/産業革命は、「産業革命を推進しなければならない理由」をも生み出す/なにが行き詰まっているのか?

第4章 「家」を考える
 1 「家」というシステム
「家」を考える/「家」というシステム/愛情でシステムを考えてもしょうがない/日本の会社はどう「家族的」だったのか?/「終身雇用だから家族的」というわけではない/問題は「どう家族的か?」ではなく、「なぜ家族的か?」である/日本の会社はなぜ「家族的」になれたのか?/「大きいこと」はいいことか?/「一般家庭が地球を壊す」という関係性/「人手がないから機械を使う」という関係性/一人の老人が機械に助けられて労働をする
2 機械は人を疎外し、豊かさもまた人を疎外する
それは「貧しさ」のせいではない/家族に「家を出ていく自由」を与えた時「家」は崩壊する/「豊かさ」の罠/機械は人を排除する/なぜ「機械」は壊されなくなったのか?/かつて、景気は循環して、雇用も循環した/話が「人件費」になると、そのステージも違って来る/人件費は世界を巡る/「それはどこかへ行ってしまう/「景気を成り立たせている人達」がいい人だったら、きっと地球は壊れまい

あとがき 二十年しか歴史がないと