父親たちの星条旗

 京橋にある「テアトル銀座」で「父親たちの星条旗 (監督 クリント・イーストウッド)」(字幕版)を観た。
 クリント・イーストウッド監督にどかーんとやられたのは前作の「ミリオンダラー・ベイビー」を観たときで、これはほんとに凄いと思った。ラストシーンは凄絶といっていい。そのときは、たまたま妻といっしょに観ていたので、「イーストウッド監督作品はかならず映画館で観ることにしよう」などと言いながら帰ってきた。
 そして本日である。
 妻はすでに母親といっしょに観ていたので、私は息子を連れて出かけた。中学生の息子に太平洋戦争の話がピンとくるかどうか不安だったが、イーストウッド監督ならなんとかしてくれるに違いない。
 じつはもうほとんどの映画館で「父親たちの星条旗」の上映は終了していて、「硫黄島からの手紙」が始まる勢いであり、あわてて銀座に走っていったのだった。つい先日、ASH&Dライブを観た建物で今日はシリアスな映画を観ることになる。

 始まったときはどうしようと思った。戦争映画だから当たり前だが、やたらとたくさん人が出てくるのであり、兵士だから服装はみんな一緒で、区別がつかん。やばい。
 一枚の写真が戦争を動かすというのはとても面白い発想だが、映像的な説得力はあまりなかった。
 戦闘シーンと本国に帰還してからの空虚な英雄シーンが交互に出てくるので、だんだん人の見分けがついてくる。
 見終わって、記憶に残ったのは、ドク、アイラ、イギーの三人だった。「なんでイギー?」と言われたが、記憶に残ってしまったものは仕方ない。
 真の英雄はマイクだったというセリフが繰り返し出てくるが、マイクの印象は薄い。というより、ない。
 ずっと画面に映っていたにもかかわらず、最後まで名前を覚えなかったのが、レイニーだった。英雄などいないというのがこの映画の主張だが、レイニー(観ていた時は名前を覚えていないので、顔のにやけた人としか認識していない)はなにもないところから英雄という果実を取り出し、成功するのだと思っていた。だから、この人の生涯の閉じ方はちょっと衝撃だった。事実なのだろうけど、とてもイーストウッドっぽい。
 英雄時代の終わりから、死ぬまでの長い年月、目立ちたがりの妻とどのような葛藤があったのか、いろいろ想像してしまう。描かないところが、演出としてうまい。

 映画を見終わって、視点の欠落に気づかされた。日本がとても貧乏で資源もなかったということにばかり意識がいき、これまでアメリカの国庫が破綻寸前までいって厭戦気分が広がっていたことは知らなかった。そのことを知ると、戦後の日本統治について、もう一度知りたくなってくる。

 次はGHQをやればいいのではないか。
 直接GHQを描いた作品ではないが、それにつながる人と時代を描いた点で、「丘の一族―小林信彦自選作品集」が印象に残っている。

 息子に感想を聞いた。
「死んでも徴兵にとられたくない」
 まあ、正しい実感かなあ。
「次はインディアンつながりで、世界最速のインディアンを観たいね」
 と言いつつ、篠突く雨の中を帰宅した。